蓮華王院本堂・法住寺・建仁寺(河原町)

平清盛の財力と武力を利用して院政を進めたかった「海千山千」の後白河上皇と
出世したかった「先見之明」のある清盛
どっちも「合理主義」で、古い慣習にとらわれなかったとこも共通していました。
清盛は後白河上皇のために蓮華王院本堂(三十三間堂)を寄進したり、「新熊野神社」まで造営しました。後白河上皇は「今鏡」でそのこと絶賛されています。

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清盛の妻時子と、後白河天皇の妻滋子は姉妹、つまり清盛と後白河上皇は義理の兄弟でした。
上皇50歳の宴では院の御所「法住寺」で清盛の孫、維盛が舞楽を奉るなどして平家一門で喜ばせたそうです。

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間に入ってくれる滋子が亡くなってからは、2人の関係は悪くなってきます。
上皇は人事で牽制したり、平家討伐未遂事件(鹿ヶ谷事件)にかかわったり。
清盛が息子と娘を亡くしたところに、さらに領土取り上げたり、平家を無視するような人事を勝手にすすめたりしました。
「治承三年のクーデター」「福原遷都」「安徳天皇即位」につながりました。

法住寺
院の御所があった寺院。後白河法皇が木曽義仲により襲撃された際に焼失しました。
その際に天台座主の明雲大僧正が矢に倒れ、法皇は九死に一生を得たことから身代り不動王として篤く信仰するようになりました。
後白河天皇陵が隣接しています。
法住寺が焼失した後は、長講堂で過ごしました。

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京都最古の禅寺 建仁寺
 「茶祖」としても知られる栄西禅師が開山しました。 
 本坊中庭にある潮音庭です。 お寺には珍しく撮影OKなのです。 くつろぎの空気が流れています。 お庭をみながらのんびり過ごしている方も多いです。 写経体験が、個人の方でも予約なしで随時参加できるのもおおらかです。 坐禅体験は、事前に申し込みが必要です。詳しくは公式サイトをご覧ください。

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境内の南側にある勅使門は、平清盛の長男平重盛、あるいは平清盛の異母弟・平教盛の六波羅邸にあった門を移築したものと伝えられています。 柱や扉には、矢の痕が残っているため「矢立門」「矢の根門」とも呼ばれています。

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<河原町周辺の平清盛ゆかりの地>

六波羅

八坂神社

長楽寺
平清盛の娘徳子が、平家滅亡後出家したお寺。
壇ノ浦の戦いで息子安徳天皇と母(清盛の妻)時子と入水しましたが、一人だけ源氏方によって助けられました。
大原の「寂光院」で平家一門の菩提を弔いながら余生を過ごしました。

建仁寺
京都最古の禅寺。
境内の南側にある勅使門は、平清盛の長男平重盛、あるいは平清盛の異母弟・平教盛の六波羅邸にあった門を移築したものと伝えられています。
柱や扉には、矢の痕が残っているため「矢立門」「矢の根門」とも呼ばれています。

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厳島神社
清盛が安芸宮島から勧請したと伝えられており、祇園女御が祀られています。


高倉宮跡
治承4年(1180)に諸国の源氏に平家追討の令旨を発した以仁王の邸宅跡。


若一神社
平清盛が熊野信仰をもとに造営。
近くには祇王と仏御前の立場が入れ替わった舞台になった清盛の邸があり、六波羅と並んで平家一門の本拠地でもありました。
境内には、清盛手植えの楠や清盛ゆかりの神水も。


高松神明神社
保元の乱で、後白河天皇の本拠地となりました。

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このページは、Yukariが2011年9月26日 15:53に書いたブログ記事です。

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