寺町(2)

法園寺

境内には五輪塔があり、秀吉から九州での失策の責任を取らされ切腹を命じられた北陸の武将 佐々木成政の墓と伝えられています。
成政は富山県で治水に尽力したり、真冬の北アルプス越えという離れ業を成し遂げたりしたそうです。
寺宝として後陽成天皇の直筆の和歌、「なき人のかたみの雪やしぐるらん 夕の雨に途はみえねと」と一首の掛け軸などがあります。

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常楽寺

大物より寺町に移されました。
ご本尊は阿弥陀如来ですが、津田宗博という豪族が寄進したと伝えられています。お墓が常楽寺に残っています。

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善通寺

善通寺は阪神間で唯一の時宗教のお寺。
赤レンガの塀が特徴です。寺町の中でも少し奥まったところにあるので異次元のようですね。
寺内には後醍醐天皇の皇子、尊良親王が土佐に流されたとき、お供をした秦武文の碑が建てられています。
妃を土佐に迎えるとき尼崎で海賊のために奪われ、ついに自決した南朝方の忠臣悲話が伝えられています。本堂は尼崎指定文化財です。

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八角堂には首だけのお地蔵さんがまつられていて、「首なし地蔵」として信仰を集めています。
なぜ首だけなのに首なし地蔵というのかといいますと、境内の張り紙によると
300年以上前善通寺境内に地蔵尊がお祭りされていましたが、不届きものが首から上をちぎって庄下川に捨ててしまいました。
それから以後首無地蔵尊と呼ばれ参拝者が絶えることがありませんでした。
ある日、漁師さんの網にお地蔵さんの首がかかりました。
家に持ち帰り朝夕おまいりをしていたところ、夢枕にあらわれた地蔵菩薩が
「私は善通寺の地蔵です。元に戻してもらえれば、首から上の病をなおしましょう」とお告げがあったので
善通寺の住職にこのことを申し出て首を元に戻すと、胴と一致しました。
地蔵堂を建立して御尊体を奉仕されました。戦災によって地蔵堂は消失しましたが、首から上は無事で残り、
現在の八角堂の中にお首を祀ったということです。

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大覚寺

2月3日の節分祭の豆まき、「大覚寺狂言」で有名です。

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聖徳太子が百済の高僧・日羅に命じて長洲浦に造らせた「燈炉堂」が起源であると伝えられています。鎌倉末期から港湾都市尼崎の発展に大きな貢献をし、尼崎城が構築されるまでは大覚寺城として活躍しました。
中世尼崎を知るうえで欠くことのできない「大覚寺文書」は、兵庫県の指定文化財です。当時の境内や伽藍配置の記載や長洲荘領主鴨御祖社社家や荘園代官、沙汰人らが同寺の安泰を保証した証文があります。

長遠寺

本堂と多宝塔は国の重要文化財に指定されています。
本堂は入母屋造、本瓦葺です。柱の上の組物や軒屋根の傾斜などに桃山時代の建造美をうかがうことができます。
1982年の解体修理によって、1623年にこの地に再建されたことが判明しました。

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多宝塔も棟札に慶長12年(1607年)とあり移築されたものと考えられています。
塔身は円形で軒そりの形がよく組物や蟇股などの形態には桃山時代の特徴がよく表れています。

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客殿・庫裏・鐘楼は県の指定文化財です。
その他室町時代の銘をもつ鰐口、雲板、裏書に永禄8年(1565年)と記された絹本著色涅槃図、長遠寺文書、
紙本着色日蓮大聖人註画讃が尼崎市の指定文化財に指定されています。

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如来院

古くは「神崎釈迦堂」といい創建は神崎の地です。
1327年の石造物で笠塔婆という供養等があります。笠の部分は失われています。
銅鐘とともに、尼崎市の文化財に指定されています。

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また鎌倉時代法然上人が神崎に立ち寄ったとき、
極楽浄土に往生することを願って神崎川に入水した5人の遊女の髪がまつられています。
江戸時代に現在の寺町に移転しました。

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専念寺

寺町の一番西にある赤い門が特徴の通称「あまもんさん」と呼ばれるお寺です。
平安末期の武将、平重盛の菩提所ということで朝廷から山門を赤くすることを許可されました。
重盛は仏法に帰依深く、冷静沈着な理想的な人間として平家物語に描かれています。

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このブログ記事について

このページは、Yukariが2011年8月20日 14:26に書いたブログ記事です。

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