大庄公民館・琴浦神社・菜切山

国の登録文化財の「大庄公民館」(旧大庄村役場)1937年、尼崎市に合併前の旧大庄村の役場として、当時の歳出予算の半分を費やして建てられました。大庄村は昭和初期までは漁業とさつまいも栽培が盛んでしたが、臨海地域の大規模な埋め立てが行われ、重化学工業が発達、「日本一裕福な村」と称されるまでになりました。設計は尼崎市役所と同じく村野藤吾氏。1942年に尼崎市と合併後は大庄支所となり、現在は国の登録文化財として保存されながら大庄公民館として使われています。竣工当時のタイル貼りの外観はそのまま。見る方向によって建物の形状が全く異なって見えます。オリーブを加えた鳩やギリシャ神話に登場する怪物、グリフィンなどのレリーフもあります。

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2階と3階の窓のデザインが違っています

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塔の部分にも装飾があります。

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デザインで穴があいています。

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建築当時の面影を残すのは旧貴賓室と階段です。
旧貴賓室は市民の生涯学習のために開放されてます。

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村野藤吾(1891-1984):装飾は不必要なものとして排除される傾向にあった「モダニズム」の方法によりながらも、装飾を多様。「階段の魔術師」の異名をとるほど階段や階段の手すりにこだわった建築物をたくさん残している。旧大庄村役場でも階段が緩やかに弧を描き、その曲がり方も階によって微妙に異なっている。大阪新歌舞伎座・宝塚カトリック教会・神戸の川崎製鉄所西山記念会館などの建物を残す。大庄公民館は、ノーベル賞の晩餐会が開かれるストックホルム市庁舎に感銘を受け、建築家として独立したあと最初に手がけた公共建築である。

お隣の大庄小学校 役場が建築された年の翌年には総数3000人を超えるマンモス校となりました。
「日本一裕福な村のシンボル」と「日本一のマンモス校」が隣接するということは実に珍しいことでした。

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「琴浦神社」この神社は、源融光が祭神として祭られています。彼は嵯峨天皇の皇子でその邸宅京都六条の河原院に、陸奥の塩釜の風景を模して庭園をつくり、毎日30石の潮水をここから運んで、塩を焼かせたと伝えられています。また海岸の景色がよそより優れているという意味で異浦とも呼ばれていると言われています。また、潮くみについては、同じ尼崎市内にある潮江の素戔鳴神社も同様の由来を持つといわれています。

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次に地名にもなっている菜切山。菜切塚は浜田町の武内家(浄専寺)に伝わる古記によれば「孝元天皇曾孫武内宿禰大臣、免位の後、難波宮松原の傍に住し給う、宿彌後此所に葬る、宿禰塚此なり」「宿禰の一子この地にとどまり朝廷に仕えた」と記されています。菜切塚は戦前までは環溝のある前方後円墳の型をしていました。昭和10年代区画整理のため環溝は東北の幹線道路となり従来の約半分足らずの広さになりました。市民に親しんでもらうため菜切山緑地として市の管理に移行されました。

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このページは、Yukariが2011年8月22日 15:19に書いたブログ記事です。

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